『森の生活 -ウォールデン-』 ヘンリーDソロー
何かに詰まった時、あるいは何をすれば良いかわからない。ビジョンというのが見えなかったりした時は誰にでもある。そういった時に僕ならふらっと喧騒から離れ、つまり自然に近づいて、自分自身の心を動かす変化の「気づき」を感じとろうとするだろう。彼みたいに長くは居られない。でも2年もの間、森で1人で生活したヘンリーソローの思想を読めば、自然ともっとこう向き合える機会を掴めるかもしれない。
このソローの『森の生活は』1854年にアメリカで出版された。メルヴィンの『白鯨』やストウ夫人の『アンクルトムの古屋』などの名作が生まれた1850年代のアメリカ文芸復興の隆盛した時代を代表する一冊である。
「新しいものを手に入れるためにそんなに思い悩むことはない。物事は変わることはない。変わるのは我々人間である。君の思想は手放すな。自分の思想を持ち続ける限り、世界が広大であることは変わることがないだろう」
ソローが考えるに、われわれの身体に最も必要なのは、体温を保っていくということである。その次に「食事」「衣服」「住居」となるわけだ。ある国の気候次第では極楽の生活ができるという。つまりそこでは太陽が燃料の代わりをして「衣服」も「住居」など必要でなくても暖かい生活ができるといわけだ。
贅沢な生活ができるようになった者は心地よく暖かい生活をしているのではない、ともいっている。彼らは、「不自然なまでに熱い生活をしているのである。彼らは料理されたのである。もちろん、当世風に」(つまり身も心もスポイルされたと皮肉的に表現しているのだろう)
「人間を汚すのは、食べ物の質でも量でもなく、味覚への執着である。肉欲はさまざまな形で現れるが、すべからく同じものである。純潔さもすべて一つだ。」
彼は小さな丸太小屋を数ヶ月で建てた。質素なものである。雨水が入らないように四方を板張りにして、冬が訪れる前には煙突を建てた。それがどうも画趣に富んだ美しさがあったのは、外観上ではなくその中に住む人の生活によってであったからだろう。こう感じることはしばしばある。一見質素で素朴な佇まいの家もその中の生活によっておもむきを放っていることが。
ソローは森の生活でトウモロコシや豆などを植え畑仕事をして、訪問客があれば歓談し、森の中を歩き森林や生き物たちを観察した。早朝に沐浴と読書(ギリシア語で書かれたホメーロスの『イーリアス』を愛読した)を怠らなかった。
「知と清潔さは努力に由来し、無知と色欲は怠惰から生まれる」
彼曰く、心に曙が輝くのは朝の時間である。睡魔に打ち克つ努力こそ、道徳的向上であると。彼は慎重に生きたいと望んでこの森に入った。そう望み、実りのある一日と感じ取ることこそが最高の芸術であると信じていたのだ。
夏の陽の当たる時間が最も長い日には、こっそりと畑仕事を抜け出し、池にボートを浮かべその日々を贅沢に使った。「金銭の持ち合わせはなくとも、私は金持ちであった」
夏も終わり北風が吹き付けるようになると、晩に火を焚き始めた。「隙間風の入るような部屋で寒いけれど楽しい夜を過ごした。天井は高く、頭上は何かほの暗さが感じられ、梁のあたりを暖炉の影が揺らめき空想や想像力を駆り立てたのである」
彼がいうに、「始めて家に住むようになった、と言えるのは、家が雨風を凌ぐ場所としてではなく、暖をとるようになった時であった」という。
煙突の煤が溜まるのをみて楽しんだり、棒でかき立てると満足した気分になったという彼の情緒や心の品性に僕は満足したような納得させられた気分になった。
本書の中でいくたも取り上げられる、彼の生き物に対する主観や観察がおもしろい。
「九月の静かな午後、鏡のような湖面の美しい池に心を奪われていると、燕が見誤ったかのように水面に飛び込んでは、水であったことに気づくのだった」。や、日が落ちて、真っ暗になった帰路で目の前を山鼠がサッーと横切った時の彼の心情が愉快である。
「私は不思議な戦慄ともいうべき喜びで胸がぞくぞくしていた。しかもそれを捕らえて生のまま食べてしまいた誘惑に強くかられた。その時は別に空腹ではなく、ただ山鼠が放つ野味性に惹かれたのだ。私自身の中にも、より高尚的な精神生活を志向する本能があり、その他方で原始的で野蛮な生活を志向する本能が今でも潜んでいる。そして私はその両方を大切にしている。野生的なものを善性と同じく愛している」
僕が特に好きなのは二匹の蟻の話だ。
「ある日切り株の山に出掛けると、二匹の蟻、一匹は赤色、他方は黒色の蟻で、この二匹がまさに激しい戦いを演じているのを観た。一度つかむと絶対に離れず、木片の上でひっきりなしに戦い、格闘し、転げまわっていた。さらに驚いたことに、木片の上には、双方の戦闘員で溢れ、まさしく決闘ではなく、戦争そのものなのだ。蟻のニ種族間の戦争だった。私は二匹を観ていたが、彼らは木片の中央の陽当たりのいい谷間で命の尽きるまで激しく戦っていた。その成り行きを見るために家に持ち帰って、ガラスのコップをかぶせて窓枠のところに置いた。赤蟻を拡大鏡で観ると、彼はすでに敵の最後の触覚を食いちぎり、こんどはその手前の前脚を必死になって齧っていた。ところが自分の胸部はすっかり食い破られ、中の臓器は全部黒蟻の顎のところにさらけ出していた。黒蟻の胸部は厚く食い破れなかったのだ。苦しむ黒蟻の眼は戦闘だけがかき立てる獰猛さに燃えていた。黒蟻は敵の首と胴体をぶったぎったが、二本の触覚は失われ、残った足も一部しかなく、数えきれない傷を負っていた。私がガラスのコップを除いてやると、黒蟻はぐにゃぐにゃになった体を引きずりながら、窓枠を越え姿を消した。その後、黒蟻がどんなに精霊奮起しても、大したことないと私は思った。玄関先で展開されたことは、まるで人間の戦争と同じであり、その死闘、残忍さ、殺戮を目撃した私は、その感情を高ぶらせ、苦しんできたのである。こんな気分はこの日のあとも持ち続けていた」
注目すべきところは、いかに多くの生き物たちが森の中で人目につかず野生のままに生き、生命を繋いでいることである。そんなソローは、普段は種まきをしてから、昼には木陰で1、2時間休息をとり、それから昼食を食べ、泉のほとりで読書をするのだった。僕が感じるソローという人がまさに生き物で、野生のままに生き、自由に命を繋いでいるように見える。
冬が訪れ吹雪を時折眺め、楽しい夜を過ごしていた。泉はずいぶんと凍り、夜には梟のフー、フー、と詫びしげに音楽のような鳴き声を耳にしていた。
泉の氷の深さを測るのはそんなに難しいことではなかったという。「要するに、想像力というのは、それが解放された暁には『自然』の営み以上に深く物事に没頭させ、また心を高揚させてくれるものである」
2年目の春にソローは森を出た。森に入った時と同じ理由でそこを去った。彼には生きるためにもっと別のことをしなければいけないように思えた。こう言っている、「どのようにして人は知らず知らずのうちに、ある決まった生活にはまり込んで、自分自身の馴れしんだやり方を踏襲するか、ということである」
僕が思うに、ソローが「別のこと」をしなければいけないと言ったところに、野生的な動物が成し得ない、人間の本能や理性があると感じる。そして、自分自身の馴れしみを踏襲することは、肉欲のひとつ「執着」するということなのだろう。
「雀は春一番の鳥だ!1日は1年の縮図で、夜は冬であり、朝と夕はそれぞれ春と秋、そして昼は夏に相当する」
この本を読んでいると、孔子の言葉がよく引用されている。
「徳とは捨てられた孤児のごとく、常になものではない。必ず隣人ができるものである」
「三軍もその師を奪うべし。匹夫もその志を奪うべからず」
彼が我々に言いたかったことは、自分の考えをつらぬいて、自らを元気づけることはできないか。進歩を求め、心を煩わしたり、外圧に翻弄されて、それに服従してはいけない。ということだと僕は感じる、「謙譲の美徳は闇の中に輝く天上の光を顕してくれる」
孔子思想に影響を受けていたソローの思想は後に、トルストイやガンジーの不服従への思想に影響を与えることとなる。
この世に間違った意見など、実はあまり存在しないのかもしれない。だって大多数の人は自分の意見など持たないから。僕も自分の考えをつらぬき、自らを元気づけることを「徳」としたい。