礼儀がしっかりとした人間と関わり合うのは、いつの時代でも、どの国でも心地が良い。そういう人とはいつまでも接していたいものだ。
礼儀作法を身につけるには、「毎日のその一瞬に生きる」ということに尽きる。一瞬とは偶然の連なりであり、人は偶然にかけることを好むものだ。思い切って決断する、それには情念や恐怖は干渉することはできない。だから礼儀作法を身につけるには行動しなければいけない、選択しなければいけない。一か八か。勝負はすぐに答えを出す。これは人間の一つの美学である。
決断を拒否してはいけない。引き伸ばされた決断は果てしなく続く。それは人の心を苛む。それを癒すのは行動でしかない。意志は情念に対しては慄くが、行動には強気だ。どうして情念は絶えずして心を蝕むのか。どうして先のことを考え一喜一憂し、目の前にある瞬間の決断を見逃すのか。人生とは自分が考えた通りには決して進まない。人生とは決断の先にこそ少しずつ進んでいくもの、一念一念と積み重ねたところが、一生である。この境地を会得すれば、不安や恐怖など気に留めず、自分の命令によって今の瞬間を決断することが可能になる。全てはこの一念に極まる。
こなしてきた決断が身につけるのは物腰であり、ゆとりである。 礼儀作法を知る者は、常に動き回る思考を行動によって支払う術を知っている。へつらいや計算づくしたものでもなく、無意識による行動だ。相手が話している途中で話しだしたり、言葉を選ばずに話せば無作法である。また人にぶつかったり、足を無意識に踏んでしまうのも無作法だ。礼儀作法とはあらゆる流れ弾を避ける。楽器を弾けるようになるには、力を入れずに無意識のうちに弾けるようにならなければいけないように、礼儀作法も無意識のうちに流れ弾を避け、鋭く的の中心を射なければならない。
気障な奴は大きな物腰で弾が見えない。臆病な奴は言葉や行動の大切さを知ってるが故に動くことができない。ゆとりある優雅な物腰は、誰も傷つけず、不安にもさせず、安らかで無意識な表現と動作であり、だからいつまでも人を魅了し心地良いものにさせる。